広東省 広州 沙面(アヘン戦争後の租借地)① 2024年2月13日
広州の人工島「沙面」について、
百度百科より抜粋、
百度翻訳で、日本語に訳しました👇
非常にわかりにくいですが…
1840年に英国は第1次アヘン戦争を開始し、
1842年に清政府は
権力を失い国を辱める
南京条約に調印させられ、
英国はそれから武装して
中国に侵入する扉を開いた。
1856年に英・仏帝国主義は
第2次アヘン戦争を開始した。
1857年(咸豊7年)に英仏連合軍が
広州を侵犯し、広州人民は不屈の抵抗を行った。
1858年(咸豊8年)英仏連合軍は北に大沽に陥り、北京に進迫し、清政府は屈服して降伏した。
(中略)
英、仏とそれぞれ
権力を失い国を辱める『天津条約』を締結した。
1859年に広州の英、フランスで、
広州に侵略基地を建設しようとたくらんだ。
(中略)
英国の公式人物でバークと呼ばれ、
清朝の広州での政府交渉に乗り出し、
清朝政府に沙面の北に、
幅40メートル、長さ1200メートル余りの
小湧(つまり現在の砂基湧)を
人工的に掘らせ、陸と離れ、
沙面を島にするよう強要した。
(注: 沙面は、人工島です)
同時に、沙基湧北面に道路を開き、
沙基、通称鬼基(現六二三路)と名付け、
東、西二橋を建設して沙面を行き来した。
(中略)
この工事には20万両以上の銀が費やされ、
清朝政府が支出した。
(中略)
1941年12月8日、米英は対日宣戦布告し、
当時広州を占領していた
日偽軍(Wikipedia 占領区人民を使って組織され、日本軍の軍事活動に協力した軍隊を指す)は
沙面を軍事的に接収し、
英、仏、米などの外国人を収容所に閉じ込めた。
1942年3月日本軍は人心を籠絡するため、
名目上沙面を
汪偽政府(注: 汪兆銘の傀儡政権)に
移管したが、
1941年から1945年にかけて
日本が降伏した4年余りの間、
沙面は実際に日本人の手に操られていた。
日本が降伏した後、
国民党政府は沙面を受け入れたが、沙面全体は
依然として米、英、仏などの外国人の勢力範囲であり、
1949年の広州解放まで、沙面は本当に中国人民の懐に戻った。
ソ連領事館
キリスト教 沙面会堂
お茶の博物館がありました